こんにちは。
12月も半ばに差し掛かろうとしています
この時期になると大掃除しなきゃな~とプレッシャーに
感じます
みなさんは一気にやっちゃう派ですか?
それともこまめに分けつつ取り組む派ですか?
どうやら今年の我が家は前者になりそうです・・・
ところで弊社がある岐阜県垂井町。
垂井町には国の史跡に指定されている「中山道垂井一里塚」
があるんです
そして弊社にはその一里塚ファンクラブの(愛好会)会員様が
在籍されていまーす
その方に一里塚をあつ~く語っていただきました
皆さん、垂井には中山道と美濃路と二つの街道が通っているのは
ご存じだと思いますが、この街道は、かなり昔からあり江戸時代中頃にそれぞれ名前が付けられました。
その垂井を通る中山道には、一里塚があります。この一里塚は、
垂井一里塚と呼ばれ国の史跡に指定されています。
そもそも『一里塚』ってなに?
簡単に言うと名の通り、一里(約4㎞)毎に塚があるんです。
誰が、何故、塚を作ったのか?
徳川家康が、秀忠に命じて慶長九(1604)年に人馬を借りる駄賃を定める目安や休息場所として江戸日本橋を起点に主要街道に築造されました。
垂井の一里塚は江戸日本橋から112里で、南側の一基だけがほぼ完全に残り、国の史蹟に指定(昭和5年10月3日)されています。一里塚は岐阜県や長野県の山中を通る中山道にも昔の原型のまま残っていますが、人が住む里(街中)に塚が昔のまま残っているのが指定された理由と思われます。また塚の頂上には、関ヶ原の戦いで淺野幸長が、ここに陣を構えたとされる石碑が、有りますが、実際は一里塚の東側に陣を構えたようです。
現在、垂井一里塚には大きな木は何も植わっていませんが、3年前松くい虫に食われる前は、松の木が4本ありました。この松も昭和になってから植えられたようで普通一里塚というと榎が、植えてあるという通説ですが、垂井の一里塚がどうだったのかは分かっていません。何故、一里塚に榎かと言うと『家康が、余の木』(余っている木)と言ったのを聞き間違え『えのき』を植えたと伝えられています。
柏原、今須は、復元された一里塚が、有ります。他は関ケ原を除き石碑か木碑が、その場所に立っていますよ
青野は、西から行くと青野集落がはじまる手前、道の北側石燈籠の脇に一里塚跡の石碑が立っています。
近くを通るときに気にかけて見て下さいね。
昔の人は、この一里塚で休みながら次の宿を目指して歩き続けたと思うと今は、便利な世の中ですね 感謝!